2023年京都大学第一問 福田恆存「芸術とは何か」(文理共通50文点・理点40)
第一意味段落(①~③) 「演劇の主体は観客」
①演劇(A) はあらゆる芸術の母胎
傍線部1「ドラマは為されるもの」⇔タブロー(B)/映画(B)
=(A)観客が主体/為される場所は劇場/演劇のリアリティは劇場、平土間にある
現代・・・演劇と映画は双生児として併称←近代の演劇の堕落
②「ピーター・パン」の例(A)
・・・舞台上で子供が手をたたくよう依頼/それに応じて拍手する子供たち/にっこ
り 笑ってこたえるピーター・パン
↑
傍線部2「この呼吸は映画では不可能」
映画(B)・・・子供たちが拍手しなくても筋書きは決められている
③演劇(A)をはこんでいる主体は観客/舞台における演技の主体は平土間にある
第二意味段落(④~⑤)
④芸術家・・・問いを発する人/精神の運動/答えはその限界にまでゆきつくこと
(A+)
中世の神秘劇や奇蹟劇・・・たんなる宗教問答に置きかえてしまった/タブロー
(B-)
⑤近代劇も同様(B-)
精神の運動が行われるさいの活気はない/俳優も観客も、演劇の与える真の快楽を忘
れている
↓
日常生活のものまね・・・演技/鑑賞に主体性を欠く/鑑賞者に精神の自由を許さない
↓
傍線部3「そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおも
しろい」
=観劇するより舞台を作り出す側になる方が主体性や精神の自由(A+)を感じる
第三意味段落(⑥~⑦)
⑥今日の劇作家や俳優と観客との関係
・・・自分たちの道具・鏡/この種の自我狂(B2)
観客(B3)・・・舞台に自己の似顔を見つけ出そうとしている
すこしでも自分らしきものを見いだして帰ろう/絵・彫刻を見る態度
↓
傍線部4「教養とはそういう自我の堆積にほかならない」
⑦観客(B3)
・・・おたがいの顔を見ようとはしない/他人に自分の顔をのぞかせない/舞台から
他人が得られぬなにものかを自分だけが手にして帰りたい
↑
こういう光景・・・博物館/展覧会場/音楽会/街上/観光バスのなか/小説/書斎
↓
傍線部5「現代では、芸術の創造や鑑賞のいとなみにおいてさえ、だれまかれも孤独
におちいっている」
↑
この自分たちの孤独に気づかない
孤独を深めることによって自我を富ましめようとする/芸術がそのために利用される
◎設問解説
2012年度の随想とは異なり評論からの出題。演劇を導入として現代において芸術から鑑賞者の主体性が失われ、芸術の創造者も鑑賞者も自我を過剰に求めるようになったことを論じている。本文内容は標準レベルだが、設問に対して適切な表現、字数で解答するのは厄介である。
★本来の(かつての)演劇、ドラマ=(A)、近代の演劇、映画、タブロー=(B)と
対比して読む。
問一 解答欄3行(10点)
★内容説明。傍線部自体の「ドラマ」=「為されるもの」(=A)を、「タブロー」
(B)との対比を読み取って、誰(と誰)が何を〈為す〉のかを明確に説明したい。
①段落「ドラマが真に《為されるもの》であるゆえんは~観客が主体~為される場所
が~劇場である」(A)
「演劇のリアリティは~劇場に、その平土間にある」(A)
③段落「演劇を運んでいる主体は~観客」(A)
⇔①段落「観客席で見ているだけ」(B)
解答例(解答欄は3行なので、1行25字程度として80字前後で収める)
本来の演劇は、観客が舞台をただ見ているものではなく、劇場全体において、演劇を為す主体が観客であり、為される場所が劇場全体であることでリアリティを持つということ。(80字)
◆大手予備校の解答例
〈S予備校〉
演劇は、舞台での出来事を観客がただ見るのではなく、舞台で何かが為されながら、演劇を為す主体が観客であり為される場所が劇場であることで、リアリティを持つということ。(80字)
〈K予備校〉
本来の演劇は、観客が囲い込まれた舞台を静かに眺めるものではなく、劇場全体において、主体である観客が問い演者が演じるという動的な営為であるということ。(74字)
問二 解答欄3行(10点)
★理由説明。童話劇(A)での呼びかけがもたらす効果と映画の筋書(B)の作られ方
との違いに着眼して説明する。
★傍線部「この呼吸」(A)・・・観客と俳優とのやりとりによって物語が進行すること
=解答の主語になる
②段落「・ピーター・パンが舞台上で子供が手をたたくよう依頼/それに応じて拍手
する子供たち/にっこり笑ってこたえるピーター・パン」
↓
③段落「観客と俳優とのやりとり=演劇をはこんでいる主体は観客/俳優との相互性
⇔「映画では不可能」(B)
②段落「もし映画だったら、子供たちが手をたたかなくとも、筋書きはすでにフィル
ムにおさめられ」
→観客の反応とは無関係に一方的に進行
↓
★解答の大枠・・・「演劇では(A)であるのに対し、映画では(B)で不可能だから」
↓
これらをまとめると、
観客と俳優とのやりとりによる物語の進行は、演劇において両者の相互性によって初めて達成されるのに対し、観客の反応とは無関係に、あらかじめ決められた筋書きをたどるだけの映画には不可能であるから。(87字)
↓
1行25字程度、3行ということを勘案し、80字前後で解答を作成する。
解答例
観客と俳優とのやりとりは、演劇のもつ両者の相互性によって初めて達成されるものであり、観客の反応とは無関係に、決められた筋書きをたどるだけの映画には不可能であるから。(81字)
◆大手予備校の解答例
〈S予備校〉
観客と俳優とのやりとりは、演劇の持つ観客と俳優の間の相互性によってはじめて達成されるものであり、決められた筋書きをただ一方的に進行する映画では達成できないから。(79字)
〈K予備校〉
観客の反応とは無関係に固定された物語を展開する映画には、時機を逃さぬ拍手を観客に促し以後の物語を進行させるという演劇のダイナミズムは生じてこないから。(75字)
問三 解答欄3行(10点)
★理由説明。(B2)。傍線部の「そのくらいなら」の指示内容を明らかにし、「見せ
られるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい」理由を、傍線部直後の
「鑑賞ということに~欲しているのですから」を踏まえて説明する。
近代劇における観客の没主体性を踏まえて、傍線部の比較の構造を反映したわかりや
すい説明をしたい。
★「そのくらい」=(B2)の指示内容
⑤段落「近代劇」/「精神の運動が行われるさいの活気はない」/「俳優も観客も、
演劇の与える真の快楽を忘れている」/「日常生活をそのまま演じるのものまね」
↓
「そのくらい」・・・近代劇の俳優と観客は、演劇の与える真の快楽を忘れ、精神活動
の活気はなく、日常生活のものまねに楽しみを感じている程度
↓
「なら、(観客は)見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい」
↑(その理由)
鑑賞に主体性を欠き、鑑賞者に精神の自由を許さない作品が氾濫すれば、誰もが造る側にまわりたくなるから
主体性=生きる自覚=造ること
↓
これらを大雑把にまとめると、
近代劇の観客は、演劇の与える真の快楽を忘れ、日常生活のものまねに楽しみを感じている程度であれば、鑑賞に主体性を欠き、鑑賞者に精神の自由を許さない作品が氾濫するので、主体性や生きる自覚を感じる造る側にまわりたくなるから。(97字)
↓
表現を整え、80字程度に圧縮する。
解答例
近代の演劇が、日常生活のものまねを見て楽しみを感じる程度のことであれば、鑑賞に主体性を欠くので、舞台を造る側にまわる方が主体性や精神の自由を感じることができるから。(81字)
◆大手予備校の解答例
〈S予備校〉
演劇で日常生活のものまねを見て楽しみを感じる程度のことであれば、鑑賞に主体性を欠くので、観劇するより、創造する方に主体性を感じ、精神の自由を認めることができるから。(81字)
〈K予備校〉
近代劇の観客は、日常を模倣するだけの舞台を見させられる受動的な存在に甘んじるよりも、舞台を作り出す側にまわりこんで、わずかに主体性を補おうとするから。(75字)
問四 解答欄2行(10点)文系専用問題
★内容説明。(B3)。傍線部の「そういう」の指示内容を明らかにしつつ、「自我」
「堆積」の意味を「自分だけのなにものかを見いだす」「それを自分のものとする」
「集める・蓄積する」などとして説明する。「自我の堆積」という表現に見合うよう
に、文脈においての内容を簡潔に整理して説明したい。
★傍線部の前後にある「かれら」とは、「鑑賞者」=(B3)のことであることを押さ
えておく。
★「そういう自我」の指示内容・・・(B3)
⑥段落「(近代)演劇の観客も、小説読者もその例外ではない」/「観客は舞台に自
己の似顔を見つけ出そうとしている」/「すこしでも自分らしきものを見いだして帰
ろう」/「何かを自分のものにしようと構える」/「狂気のように求めている」
↓
「堆積」・・・そうした経験の積み重なり、蓄積
↓
これらをまとめる
解答例
鑑賞者が芸術から自分らしい独自性を見いだし獲得しようと躍起になる経験が積み重なった、近代的な観念の所産。(51字)
◆大手予備校の解答例
〈S予備校〉
あらゆるものから、他人には得られない、自分だけのなにものかを見いだし、自分のものとして集め、蓄積したもの。(52字)
〈K予備校〉
芸術から自己の独自性を探り出し獲得しようと競い合う経験が積み重なって成立した、近代的な観念の所産。(49字)
問五 解答欄5行(10点)
★本文全体を踏まえた内容説明。(B2)+(B3)。
★全体としては、「近代芸術」によってもたらされた現代の状況を説明する。
「芸術の創造や鑑賞のいとなみ」が本来どのようなものであるかを本文全体から踏ま
えたうえで、それとは対極にある近代芸術における「孤独」というものを、わかりや
すく説明したい。
★傍線部の説明「現代では、芸術の創造や鑑賞のいとなみ」において「孤独におちいっ
ている」+(B3)ことを、
⑥段落「今日では劇作家も俳優も~自我狂におちいっている」(創造者)(B2)
「観客は舞台のうえに」「なにかを自分のものにしようと構える」(鑑賞者)
↓
創造者・・・鑑賞者を自分たちの道具にして鑑賞者に自己を見いだそうとしている
鑑賞者・・・芸術からなにものかを自分だけが手に入れたいと願っている。
↓
◎両者とも精神的呼応を拒絶し、殻に閉じこもって自我を補強することだけを考えてい
る。・・・解答要素(1)
★「芸術の創造や鑑賞のいとなみ」が本来どのようなものであるかを本文全体から再確
認(A)
問一より「本来の演劇は、演劇を為す主体が観客」
問二より「観客と俳優とのやりとりは、演劇のもつ両者の相互性によって初めて達成
される」
問三より「主体性や精神の自由を感じることができる」
・・・解答要素(2)
★解答の方向、大枠
「本来の芸術は(1)であるのに、近代では(2)であるということ」
→本文末尾から、批判される対象は「演劇」のみならず、「芸術」全体であることに
注意する。
↓
1行25字程度ということを勘案し、125字前後で解答を作成する。
解答例
本来の芸術は自由な精神の運動によって生まれ、創造者と鑑賞者とが相互にやりとりをする主体的な営みであるが、芸術が日常生活の模倣と化した近代では、創造者も鑑賞者もお互いの精神的呼応を拒絶し、殻に閉じこもって自我を補強することだけを芸術に求めているということ。(126字)
◆大手予備校の解答例
〈S予備校〉
近代芸術によって鑑賞者に精神の自由を許さなくなった現代では、日常生活だけでなく、芸術においても創造者は鑑賞者を自分たちの道具にして鑑賞者に自己を見ようとし、鑑賞者も芸術から他人が得られぬなにものかを自分だけが手に入れたいと願い、みんなが自我を過剰に求めているということ。(134字)
〈K予備校〉
自由な精神の運動によって生み出される本来の芸術は、制作者と享受者の応答によって成立する主体的な営みであるが、芸術が日常生活の模倣と化した近代では、制作者も享受者も他と精神的に呼応することを拒絶し、自我を補強する材だけを芸術に求めようとしているということ。(125字)